ドリーム・ウォーカー

僕は歩いている。夢の中で歩いている。隣には地味な恰好をした相棒がいる。彼は埃にまみれて何だか茶色っぽい。そして大昔のお遍路様のような恰好をしている。まさか弘法様では?僕はゴールに着くと同行者と別れる。どうもそれが毎日のようだ。

僕は日頃歩くように心がけているが、でも夢の中で歩いているのはおそらく初めてだろう。夢の中ではこんな日常動作もあまり見かけない。僕はゆっくりマイペースで歩いている。だからあまり疲れない。そしていつも同行者がいる。同行一人?本当に弘法様では?

とうとう夢の中までウォーキングが出て来た。でもそれは僕の人生コンセプトである。森羅万象の中を歩く。だから本当はもっとダイナミックな歩き方をしたい。日本中を歩き回り。そして世界も歩く。アフリカの茶色っぽいサバンナを、モンゴルの荒涼とした草原を、タクラマカンの激しい熱砂の中を…。

でもそれにはもっと健康にならなければ。現状は厳しい状況だが、夢だけは持っていたい。いつかアマゾンの源流近くまで行くと…?


この夢を見て目覚めたのは午前5時である。でももう一眠りすると夢の意味は少し変わってくる。簡単に言うとモンゴルが昔の力を取り戻し、大きくまとまり、また昔のように西へ向かおうとしている。何と荒唐無稽な!この時代に大モンゴル帝国はないだろう。中国の西で騒乱の情報もない…。

結構凄い?

僕は2年前から2本のブログを書き始めた。一つはこのブログ「ひぐらしプランナーの時々日記」もう一つは毎晩のように見て、時には悩まされる僕の夢を記録した「3%エスパーの夢日記」で、時々日記とあるように2本とも時々しか書かない。それでもひぐらしの方は534本、夢日記の方は414本書いている。暇つぶしの割には結構書いたもんだ?

それでページビューを見てみると15745人、12月20日から記録を取り始めたから36日間、つまり一日437人が見ている事になる。これを2年にしてみると31万9000人にもなる。暇つぶしに書いている割には恐ろしい数字になる。皆様スイマセン暇つぶしで。それとインターネットのパワーには驚いてしまう…。

僕のように名も知れぬものが書いていても、こんな驚異的?な数字が出てくるから、確かに近頃インターネットが世界に、社会に大きな力をもたらす事も納得できる。アラブの春も確かインターネットがキッカケだったと記憶している。だから多分あらゆる情報がインターネットに乗っているんだろう。つまり社会のあらゆる人が無料で膨大な情報を見ることが出来る。そして恐ろしい事に?そこから選挙の結果も左右されるし、社会変革も起きうる。

このツールは見るだけではなく、読者同士がアップ・ツー・デートに議論もできるから、多分世論形成にも大きな役割を果たしているだろう。でもこれは民主的でいい。誰でもが意見を述べたり、議論を交わしたりできる。しかも一瞬に世界と交信できる。しかも只で。だからこのシステムが広がる事により、世界の人達による広い世論形成もできる。どこかの国がズルをやろうとしても、たちまちバレるか強大な非難を浴びてしまう。

為政者にとっては油断も隙もないツールになりそうだ。でも為政者は逆にこれを利用すればいい。そういう意味では本当に便利な世の中になった。でもそれ以前に僕としては、自分のブログを、日記を無料で書き、無料で保存できる有り難いツールだ。それと近頃複数のインターネットで、ブログをそのまま本にできるサービスがある。しかも安い。昨年初め僕はひぐらしの方を3冊頼んでみた。数週間後立派な本が送られてきたが、依頼先はやや不満だったようだ。こんな冊数では採算が取れないだろう。だから今度はもう少しタイトル部分や目次などを整備して、もっとキチンとした本にしよう。そしてせめて10部位は頼もう?


僕には何も資産はないから、僕が死んだら僕のブログ本を2人の娘への遺産として送ろう。でも娘達は怒るかも知れない。ヤレヤレ何とセコイ考えか?でも古人曰く、ペンは剣よりも強し。チョツト意味が違うか…?

日本学事始

この頃不精になってブログとも久しい。これではタイトルを日暮日記ではなく、日暮月記に変えた方が良いかも知れない。僕もあと4日で69歳になるが(1月27日、モーツアルトと同じ誕生日)近頃は老後のワンパターン・ライフを過ごしている。本を読み、歩きまわり、好きなものを食べ、良く眠る。後は残念ながらの人工透析通い。でもこれもお勤めだと思えば自分を納得させられる。

近頃は読む本も選ばなければ、過去に何度か読んだものを読んでしまう。たとえ著者が違っても、人物が同一だったりする。でもこれは僕が悪いので、常に新しいものに挑戦する気概に欠けているからだろう。社会には数十万冊の本があり?僕が読んだものは多分千冊にも届かないだろう。それとネタがほとんどが古書なので、新しいものには中々ぶつからない。でも古書という事は、その本が良く読まれているという証拠でもある?

今は梅原猛の日本学事始を読んでいるが、日本学という言葉はあまり聞いたことがない。多分日本人とは何か?という事を広く探索する書だろう。その中でかなりユニークな視点で書かれた部分がある。それは日本人とアイヌの共通性で、かなりの部分で古代日本語とアイヌ語が重なるという。であればアイヌは異人種ではなく、原日本人という事になるかも知れない。

僕は北海道なのでアイヌは白老村?見たが、彼らは北方系よりは南方系に見えた。例えばギリヤークなどの北方民族はいかにもモンゴロイドという顔をしているが、アイヌはむしろポリネシアンに似ている。この本では原日本人は同種族である、九州から北上してきた後続民族に追いやられ、北と南に分布したと書かれている。であればアイヌとクマソは同種族という事になり、それは原日本人という事になる。何と歴史の真実は?興味深いものか…。


などと思い日を過ごしていると、僕は現在・過去・未来に遊び退屈しない。昔西洋の偉い人が、人間は考える事により人間であるとか言ったが、そういう意味では人間は考えることによって暇つぶしが出来る貴重な生物種である。猫はいくら可愛くてもヒマな時は寝ているだけだ。人間は考えることにより、現在のように地球に蔓延った。だから多分遠い将来は宇宙にも蔓延るだろう。チョット乱暴な結論か…?

残雪の朝

僕は団地を出、この高台から永田中央のバス停へ歩いていく、ここは下り坂なので歩くのは楽だ。今日も寒さは続き先日降った雪がまだまだ平然と残っている。この年になると雪を珍しいものとして喜ぶのではなく、その白い残骸が疎ましい。早く消えてくれと僕の頭脳は嫌悪感を示す。

でも北海道にいた時は約半年は雪で、それが普通の事なので疎ましい事ではなかった。でも3月の雪解けの頃は、道が解けた雪でベチャベチャになり嫌な季節だった。でも東京へ出てきて数十年経つと昔の事はスッカリ忘れ、今は少しの雪でも嫌悪感が立ち上る。人間というのは勝手なもんだ。楽な環境に慣れると、今までの経験を嫌悪するようになる…。

そういえば僕が東京に出て来たのは大学卒業の年の12月、親に買って貰ったばかりの濃紺のカローラに乗って、スノータイヤを履いて、その上にチェーンを巻いて札幌の自宅を旅だった。後部座席にはギターを積んで。満足に地図も見ないで家を飛び出した。まず定山渓を目指し、そこから吹雪く中山峠を越え、停まるとやばいので、ひたすら車のわだちを追って走行を続けた。間違って停まりでもすれば、ほとんど通行車のいない孤道で凍死するかもしれない。

でも僕はその夜やっと函館まで辿り着き、その場で青函連絡船に車を乗せた。もう45年も前の事だ。その後僕はひたすら走り続け、といっても単に東京方面という標識を見てだが、茨城県に入りとうとう睡魔に勝てなくなり、路傍のドライブインに入って爆睡した。翌日は睡眠タップリで宿を出、間もなく千葉の団地の姉の所に辿り着いた。今考えても随分乱暴なやり方だと思う。でも僕はこういう不細工なやり方で今までもやってきた。そして翌朝又すぐ車をだし東京方面をめざしひたすら走り続けた。東京での住まいを探すためである。

僕は東京都内をしばらく走り続け、いつの間にか杉並区にいた。そして道沿いの不動産屋を見つけアパートを探した。だから初めの住まいは杉並区の方南町の6畳一間のアパートである。という行き当たりばったりのやり方で今まで生きてきた。その結果今は横浜に住み、しかも人工透析である。このいい加減な生き方が現在を招いたと言えるが、その割には反省していない。多分人生はこんなもんだと思う。


今日は残雪の話をしたが、東京のささやかな残雪の話である。昔の豪雪地帯の小樽の残雪ではなく、東京のささやかな残雪の話である。今朝も横浜は寒く、僕はストーブを2台も付けて寒さをしのいでいる。でも今朝もピーカンで空は青々している。さあ今日も頑張ってお勤めに出向こう。ヤレヤレ…。

今朝は雪だ、吹雪だ…

朝10時ごろ目を覚ますと雪だった。それは激しく降り出しすぐに積もり出した。団地の歩道や駐車場の車の屋根はすでに白い。でもこれは天気予報通りだ。昨日はあんなに暖かかったのに。僕は女房と、ノンビリ伊勢佐木町商店街を歩いていた。これでは今日は外にも出れない…。

そういえば今朝は一晩中テニスの夢を見ていた。僕は街の中でマッケンローやコナーズと話していた。それはアメリカではなく日本の街中だ。どうも彼らと日本でスポーツイベントをやるようだ。僕は夢の中で疲労していた。彼らと何かをやるという事は、凄く疲れることなのだ。

僕がプロモーターとしてマッケンロー、コナーズ、ボルグ…つまりシニアツアーの日本大会をやっていたのは1995〜1999年の5年間、NTTデータ・チャンピオンズテニスとして有明コロシアムを満員にした。でもテニスイベントは儲からない。有明を満員にしたところで所詮一万人、粗利で3000万位にしかならない。結局5年間やって1億5000万円の赤字を出して、自分の会社を潰してしまった。

だから僕はテニスの夢を見るとゾッとするし、精神的にも疲れる。天下のマッケンローもコナーズも僕にとっては厄病神だ。でもそれは言い過ぎか?彼らに何も罪はない。このイベントをやらざるを得なくなった、僕の運の悪さとしか言いようがない。僕は単なる広告代理店の一営業に過ぎなかった。でも運命は僕を独立させ、尚且つこんなイベントをやらざるを得ないところまで僕を追い詰めた。こんなイベントは本当は資金的に余裕のある電通がやるべきなのだ。であれば立派な黒字イベントとして評価されただろう…。

だからテニス事業の夢を見ると、ゾッとするし凄く疲れる。人の運命は分からないものだ。数年前まで気楽な広告代理店の営業だったのに、アレヨアレヨという間に独立し、そしてイベントの契約書に、弁護士立ち合いのもとハンコを押す羽目になる。この激しい運命の流れに僕は翻弄された。でも今更愚痴を言ってもしようがない。逆を言えば面白い経験をしたと言えるかもしれない。何もない僕が大きなことをやるという事は、大きなリスクを伴うという事だ。


でもこんな雪の日に、大きな痛手を蒙ったイベントの夢など見たくなかった。これでは益々雪の寒さが身に染みる。これでは踏んだり蹴ったりではなく、降ったり蹴ったりだ。あまりシャレにもならないか…。

夢で逢えれば

マブダチのブンタが死んでから、もうどのぐらいたつのか思い出せない。でもそれは去年の事ではある。僕の部屋の本棚の仕切り板にはブンタの写真が2枚貼ってある。その内1枚は彼を正面から撮ったクローズアップ写真で、猫とは思えないほど知性的な顔をしている。僕はいつもその写真を見て、その顔に頬ずりした感触を思い出す。柔らかくてフワフワして、やはり奴の感触は素晴らしい…。

僕は懐かしいので多分その内夢でブンタに会えると思った。でも中々夢には表れて来ない。猫の魂は一体どうなっているんだろう?人間であればいい奴も嫌な奴も時々夢の中に現れる。夢の中で意地悪する奴もいる。起きると僕は思わず苦笑いする。性格の悪い奴は死んでからも性格が悪い…。

でも昨年の12月の初めごろ、とうとう猫の夢を見た。でもどうもそれはブンタではないようだ。その猫は高い所にいて、白い燕尾服のようなものを着て直立していた。そして襟は赤や黒で縁取りされていた。つまり結構派手で偉そうな猫だった。この猫は一体どんな猫なんだろう?猫の神様なのか?どうして僕はその猫を仰ぎ見てるんだろう?だからこの夢は僕の望んだ夢ではない。僕は本当は夢の中でブンタを抱き上げ頬ずりしたいのに。


だから僕は今も夢の中でブンタには会っていない。多分これからも本棚の写真を見て、懐かしさを募らせるだけだろう…。でもあの夢のように、高い所に猫の天国?があるのなら、行いの正しいブンタは、きっとそこにいるだろう。あれだけ姉夫婦や僕らを喜ばせたブンタが、死んでから地をさ迷い歩くなどという事がある筈はない。ブンタは猫の天国で楽しく暮らしている筈だ…。

第10の予言

ある日散歩をしていて、街の古本屋の平台に「第10の予言」というタイトルを見つけた。何となく気になったので買って読んでみた。でもあまり面白い本ではなかった。でもアメリカでは発売一週目で全米ベストセラー第2位になっているという。何と初版100万部だという。でもこれには理由がある。

この本はジェームズ・レッドフィールドの処女作「聖なる予言」が世界で540万部も売れたことを受けた第2作目だったからだ。僕はこの「聖なる予言」は読んでいない。だから2作目の「第10の予言」を読んでもピンとこなかったんだ。つまり前作では第9の予言まで述べられていた筈だ。でも古本を買う僕としてはその前作は見つけづらい。つまり古本は何のつながりもなく只平台に置かれているからだ…。

でもこの本はどうも人間の魂に係わる知恵や予言を言ってるらしい。そうであれば僕の近頃の思考と関わりがある。この本の中で興味深いのはバースビジョンという言葉だ。人間は生まれてくる前に、自分は何をやろうとして生まれてくるのか確認するらしい。それがバースビジョンだ。そしてその人の一生を通じて、それが上手くできた人と、上手くできなかった人が出てくる。

それと人は自分と同様のライフコンセプトを持つ、魂のグループの支援をいつも受けているらしい。それは親子とか親戚とかいうつながりではない。つまり一人一人がこの地球に生まれてきて何をやるかという課題を持ち、同じ考えを持つソウルグループと協力してそれらを推し進めるという構図になるらしい。それが人間世界、宇宙を推し進めるものになるという。

そうであれば何となく分かりそうな気がする。つまり人間は一人一人が役割を持って生まれてくる。この本はその魂の役割について言っているらしい。そうであればこの本の言っている事は理解できる。つまり誰でもそうだと思うが、生まれてきてある時期に、自分は一体何のために生まれてきたのだろうと考える。あるいはそういう疑問を持つ。であればこの本は人間の普遍的な事柄について述べているものだ…。


所で近頃僕はやはり人生の終盤を迎えて、この本と同じような課題に突き当たっている。一体自分は何をやるために生まれてきたのか?自分のバースビジョンは何なのか?でも凡夫の僕にはそんな高尚な事は分からない。多分後2〜3回生まれ変わらないと分からないだろう。やれやれ知性を持つ高等動物の、生きることの難しさよ…。