「ガリア戦記―2」

今日1月27日は僕の誕生日、とうとうというかやっぱりというか66歳になってしまった。ゾロ目だから縁起がいいのか?666でなくて良かった。666は獣の数字だ。それと1月27日はあの神の子、天才モーツアルトの誕生日だ。しかし僕は盆栽だ、チャウ凡才だ。金遣いが荒く貧乏な所だけが似ているかな?でも多少の才能はあったのか?若い頃はデザイナーやイラストレーターとして朝日新聞なんかで仕事をしていたから。しかし飽きっぽくて30代に入ると営業・企画に転向してしまった。僕の事はともかくカエサルについて。

僕が若い頃、ギリシア神話イーリアスを読んでいた時、トロイ戦役の後日譚として、トロイアがオデッセイの策略、あの木馬の詭計で落城した後、トロイアの副将と市民達が隣の町に逃れ、そこで2隻の巨船を作り新たな殖民都市を作るために船出をしたという話を読んだ記憶がある。ギリシアの神話や叙事詩は神と人が渾然とした形で話が進むので、その信憑性は疑われていた。トロイ戦役も元々は神々の争いから始まったものだ。(3人の女神が美を競うという結構世俗的な神々だ)しかしシュリーマントロイアの実在を信じ発掘に成功した。であればトロイアの後日譚も真実性を帯びてくる。

カエサルの祖先もそこに繋がる。ガイウス・ユリウス・カエサルはローマの名門貴族。その祖先はローマの創設者イウルス。イウルスの父はトロイアの王子アイネイアス。(あのスパルタ王メネラオスの妃へレナをさらって逃げたパリスと彼は兄弟か?しかしアイネイアスという名は僕の記憶にあまりない)そしてカエサルトロイアの守護神、幸運と勝利の女神ウェヌス(ヴィーナス)の末裔、そしてローマ王政時の最後の王の末裔。僕の記憶ではトロイ戦役はBC1300年頃、ローマ建国はBC750年頃、例の高校の世界史で習ったロムルス、レムス兄弟の伝説。ロムルスはローマの初代の王となった。

しかしこの伝説より550年も前に、アイネイアストロイア市民を連れて地中海に船出し、始めにカルタゴに行きしばらく歓待され滞在するが、カルタゴの王女ディドーを振り切り地中海を北上、イタリア中部のテレベ川を遡りローマの地に至る。彼らはそこで近くにいたラテン族と協力して国造りを始める。それから550年後にローマ建国神話が作られる。この時間差は一体何だろう?しかしこの時のカルタゴとの因縁は後々数百年にわたるポエニ戦役に繋がる。

とにかくカエサルは、幸運と勝利の女神ウェヌス(ヴィーナス)、トロイアの王子アイネイアス、ローマの創設者イウルス、最後のローマ王アンクス・マルティウスの後裔で名門中の名門である。また彼自身もその事を誇りとし、常に神が彼を守り、神の意思でローマのために行動すると考えていた節がある。だから彼はどんな過酷な戦闘にも負けなかったし、例え劣勢でも逃げなかった。その結果は常に相手の敗北であった。そういう意味では彼はまさに英雄であり、神のように強運の人である。彼はガリア(ヨーロッパ)の地で、60数部族がせめぎ合う中で、鉄壁のローマ軍団を手足のように使い戦いを常に勝利に導いた。ガリア人は一人一人は優れた戦士であったが、ローマ軍のように組織的に戦えなかった。

彼は危険に身を晒し常に軍団の先頭に立った。ゲルマニア北ヨーロッパ)侵攻では自ら流れの速いライン河に乗り入れたし、ブリタニア(イギリス)遠征でも先頭の船に乗り、真っ先に海に飛び込んだ。彼はまさに不死身の軍神であった。多分神の守護を信じ、神も彼を護ったのだろう。他の英雄達も同じだが、彼らに矢玉は当たらない。これは歴史的にも何時も不思議に思う事だ。アレクサンダーもカエサルもナポレオンも危険に身をさらしても、決して彼らに矢玉は当たらない。矢玉が彼らを避けるように、まるで神が見えないマントで彼らを護るように…。日本でも義経や信長など歴史を大きく変えるような人には矢玉は当たらない。しかし彼らがその歴史的役割を終えるといとも簡単に殺されてしまう。そして彼ら自身が死に対する注意を少しも払わない。まるで天命であるようにいとも簡単に殺されてしまう。(信長は一度大怪我をしている。本願寺攻めの時、才賀衆の鉄砲で太股を削られている)

義経は兄に、信長は部下に、カエサルも養子にいとも簡単に殺されてしまう。(アレクサンダーや高杉晋作は病死)大村益次郎木戸孝允の心配をよそに、簡単に刺客に殺されてしまう。英雄は巨大な仕事を成し遂げるが、自分の運命には淡白で、その役割を終えるといとも簡単に無駄死を遂げてしまう。どうもそれが世界に共通した原理のようだ。

カエサルの生きていた頃のローマは王政から共和制に移行し、その共和制も終わろうとしていた時で、共和制の矛盾が政治の端々に露呈していた時だ。一番の問題は貴族の集まりである元老院が自分達の権益を護る為、政治の発展を妨げていた事である。その時の実力者達は常に彼等の嫉妬と妨害に会い続けた。そして市民の力も強くなりつつあり、政治は常にこの二つの勢力の争いの場であった。カエサルはその事を充分に理解し、政治的にも柔軟な姿勢をとり、戦闘と政治に着実な力を蓄えていった。この頃の政治家に小カトーやキケロもいた。(勿論ライバルのクラッススポンペイウスも)

そしてカエサルにとって最後の戦いとなるポンペイウスとその勢力との戦いに全精力を使い、やっと彼らを倒した時に、戦場ではなく元老院で暗殺される。しかし彼はローマを世界帝国の地位まで高め、ローマ市民の力を強め、次に来る帝政への道を開いた事実上の王であった。ちなみに彼は色事にかけても若い頃から達人で、男色でもあり(その頃は普通の事)ローマ中の貴族の奥さんを寝取った男としても有名であった。(これもローマでは普通の事)何しろウェヌス(ヴィーナス)の末裔だ。エジプト遠征ではクレオパトラまでついてきた。(おまけとしては何とも豪勢な…)だから彼は生きている間、政治に戦いに色事に本当に充実した人生を送った人だ。彼は事実上の王であり、皇帝にならなくてもローマ共和制の矛盾を正し、次の時代を切り開いた天才的政治家である。最後に殺されたとしても幸運な男であった。ちなみに彼を暗殺した男達はその後すぐに殺されてしまった。そして殆どその名も残していない。暗殺者などはその程度のものだ。ただブルートゥスだけは彼の養子だった為と、「ブルータスよお前もか」というシェークスピアの言葉で有名になった。(本当は「わが子よお前もか」である)

カエサルは名文家でしかもその文章は簡潔そのもの。ガリア戦記は当時もその後の歴史の中でも評価は高い。「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータスよお前もか」という名短文?を今に残している。彼の伝記を読むと暗殺された無念さは感じられず、彼の鮮やかさだけが印象に残る。暗殺は彼にとっては最後を飾る死への華々しい凱旋式でしかなかったと思われる。多分彼はユピテル神の先導で軽々と天に昇っただろう…。